前の記事では、母が倒れたことを書きました
続きを書いていきたいと思います。
引っ越しと転院
母が倒れて、あっという間に3ヶ月が過ぎ
春休みに入りました。
新居に引越しです。
前の家から車で3〜40分の距離ですが
小学生にはとても遠く感じました。
どうやって荷造りしたのか記憶にないですが
私と弟は父方の祖父母の家に預けられて
引越しの次の日から新居に行きました。
新しい家、はじめての自分の部屋が
とても嬉しかったのを覚えています。
この日から父方の祖母が日常の世話をするため
一緒に住んでくれました。
祖父は自宅の方がっていう希望で
同居ではなく1人暮らしになりました。
春休み中は部屋の片付けをしたり
新居の近くを探検したりして過ごしました。
新学期に入り、転校先でも新しい友達が出来て
順調に新しい生活が始まりました。
母も新居の近くの病院に転院しました。
その後、母は3ヶ月前後での転院を繰り返します。
病状が安定してしまうと、同じ病院で長く診てもらうことは難しいんですね。
最初の病院も含めると5ヶ所くらいの病院にお世話になりました。
母の容態は、基本的には変わりませんでしたが
病院によって少し違うこともありました。
よく診てくれる病院では、瞬きの回数で返事が出来たり
もしかしたらわかってるのかな??と思えるような反応もありました。
でも、そうじゃない病院もありました。
病院の事情もあるでしょうし、医学的にそんなことが起こるのかどうかはわかりませんが、
家族としては、そう感じることがありました。
お見舞いに行きたくないな
父は、引っ越してからもしばらくは
仕事から帰って、私たちと一緒に夕食を食べた後
母の見舞いに行っていました。
数ヶ月経ってからは、平日に病院に行くのはやめて週末だけになりましたが。
私たちは学校があるので、平日にお見舞いに行くことは滅多にありませんでしたが、
土日は必ず病院に行っていました。
病院の滞在時間は30分もなかったと思いますが
せっせと病院に通う父をスゴイなぁと思っていました。
でも、私はこの病院にお見舞いに行くのが
イヤだったんです。
病院という空間が、なんとなくイヤだ…
お見舞いに行っても、母は意識がありませんから
話すことも出来ません。
一方的に話しかけるだけです。
それが悲しかったというか、寂しかったのかな。
いつまで経っても、病院で寝ている母は私の知っている母ではなく、別人のようだと感じていました。
母の現状を受け入れられてなかったのかもしれません。
とうとうこの日が来てしまった
母が倒れて1年が過ぎた1995年5月。
この日は5月なのに警報で学校はお休み。
弟も私も家でTVを見ていました。
『今すぐ、お父さん帰るから!
お母さんの病院に行くから用意して待ってて』
父から電話がありました。
父が1時間程で帰ってきて、すぐに車で出発。
車の中で『お母さんが危ないかもしれない。覚悟しといて』と言われました。
もう、倒れて意識も戻らないまま1年。
直近では、母の病室はナースステーションの隣になっていたし
部屋に人工呼吸器が準備されてたり
11歳の私でも、危ないのかな?という雰囲気は感じていました。
それでも突然の危篤。
車の中で涙を堪えていました。
この最後の病院は、家から少し遠く
車で30分以上かかる場所にありました。
この時はいつも以上に、とても遠く感じられました。
病院に着くと、伯父が外で待っていました。
『早く‼︎』と言われ、急いで病室に行きました。
病室の周りには、親戚が集まっていました。
ほんの少し…間に合いませんでした。
病室の入り口から、入ることができずにいました。
「お母さんの温もりを感じておいて。忘れないで。」
伯母に言われて、背中を押されて病室に入りました。
母の隣に行き、体に触れると
まだ温もりがありました。
でも、その温もりがどんどん冷たくなっていきます。
その感触は今でも覚えています。
周りがみんな泣いてる中、
なかなか涙が出てきませんでした。
周りがスローモーションで動いているような感覚。
自分の周りに膜が張ったような感覚でした。
伯母に抱きしめられて
ハッと我に戻り、ようやく涙が出てきました。
そのあとはバタバタ…
母は違う部屋に連れて行かれ、
父は色々なところへ電話をし
大人たちは色んな打ち合わせをしていて
私はそれをベンチで眺めていました。
「お母さんは、キレイにしてもらったら
家に帰ってくるから。」
と言われて、先に自宅に帰りました。
自宅では、和室に布団がひかれ
掃除をしたり、おつまみや料理など
お客さんが来る用意が急いで行われました。
しばらくすると霊柩車で母が帰ってきました。
母は和室の布団に寝かされ
お坊さんが来てお経をあげて帰りました。
母が楽しみにしていたマイホーム。
色んな打ち合わせをして、もう家は建っていて
私の希望で3学期が終わるのを待っている状態でした。
そのマイホームに引っ越す前に倒れてしまったので、
母、初めての帰宅でした。
この日は、夜遅くまで次から次へと
たくさんお客さんが来ました。
リビングは座るところがない状態で
私と弟は従兄妹たちと2階にいました。
私達が寝る時間になっても1階は賑やかでした。
頭では理解しているものの
お母さんが死んでしまった事が実感できないまま
いつのまにか眠っていました。
葬儀
翌日、通夜のため母が会場に運ばれていきました。
通夜と葬儀のことはあまり覚えていません。
印象にあるのは
とてもたくさんの人が来ていたこと。
『かわいそうに』『まだ小さいのにね』という言葉が
あちこちから聞こえていたこと。
なんとなく「私ってかわいそうなんだ」と思ったこと。
まだ葬儀の意味も、母の死もちゃんと理解出来ないまま
バタバタと過ぎていった2日間でした。
次の日から、私と弟は普通に学校に行きました。
学校の先生に呼ばれて「大丈夫?」と言われましたが
『大丈夫です』としか答えようもなく
いつも通りの日常に戻りました。
悲しむことが出来なかった
当時小学6年生。11歳です。
母が死んだということは、頭では理解できています。
しかし、このすぐに学校に行き日常に戻ってしまった事が
後々、とても大きな歪みになって現れます。
母の死を悲しむ時間を与えられなかったこと。
これは本当に大きかったと思います。
大人としては、学校に行った方が気が紛れるんじゃないかという判断でした。
確かに、そういう意味では正しかったと思います。
学校に行き、友達と過ごす時間は普通に楽しかったので。
ですが、その事で逆に母の死を実感出来ないまま
私は成長していくことになりました。
母が倒れて入院した期間が1年3ヶ月もあったので
日常生活に【母がいないこと】は当たり前になっていました。
【入院してる】のと【死んだ】の違いが、日常で感じにくかったんです。
変わった事といえば、週末のお見舞いがなくなった事だけでした。
【母が死んでしまったという悲しみ】をあまり感じないまま
蓋をして過ごしてしまいました。
この頃はすでに、自分の感情にかなり鈍感になってたので
そんな自分に気づくこともありませんでした。
今でも、誰か1人でも
『泣いていいよ。悲しんでいいよ』と言ってくれる人がいたら…
そんな風に考えてしまいます。
それでも泣けなかったかもしれない。
そのくらい自分の感情を感じないようにする
見なかったことにする
押し殺すのが当たり前になっていました。
そして、そのことに誰も気づきませんでした。
私自身も。
ただ、今から思うと
「体調不良」という形でサインは出ていたように思います。
そこにも気づかないフリをし続けたことで
暗黒期に突入していきます。
そのことは、また別の記事で。
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