小学校4年生の1月に、突然、母が倒れてしまいました。
その日の朝は、いつも通りに過ごしていたので
本当に突然のことでした。
そのことを振り返ってみます。
母が倒れた
小学校4年生、10歳の1月
学校から帰り、1人で留守番をしていると
電話が鳴りました。
父からでした。
「お母さんが倒れた。
すぐにおばあちゃんに来てもらって!」
よくわからないまま、母方の祖母に電話しました。
「お母さんが倒れたんやって。
今すぐ家に来てってお父さんが。」
『お母さん、どこ怪我したって?』
「え?わからん。倒れたって言われただけで何も聞いてないよ。とりあえずすぐに来て!」
祖母は怪我をしたんだと思い込んでたんです。
まさか病気、しかも脳梗塞で倒れたなんて
想像もしていませんでした。
だってこの時、母はまだ35歳。
今の私よりも若いんです。
この日は祖母が来るまで
とにかく電話がよく鳴りました。
当時はまだ家の電話しかなく
ポケベルも文字が出ないような時代です。
確実に家にいる私が、連絡の中継役になっていました。
当時まだ年長だった弟は
母の職場の人が迎えに行って連れて帰ってくれました。
祖母が到着するのと、弟が帰ってきたのと
どっちが早かったか覚えていませんが
初めて見る職場の人が泣きそうな顔をしてたのを覚えています。
その時は不思議に思ったけれど、あまり気にしませんでした。
あれは誰…?
夜になって、祖父が迎えに来てくれました。
祖父の車で、母の病院へ向かいました。
この時はまだ、母の病状どころか、なぜ入院したのかも教えてもらっていませんでした。
病院に到着すると、ロビーのようなところに
伯母達がみんな揃っていました。
ここで初めて、ただ事ではないと思いました。
ICUの窓のところに連れて行かれました。
まさか、そこに母がいるとは想像もしていなかったので、
「お母さん、あそこやで」と言われても
全く見つけられませんでした。
外から見ても、母の姿は
私の知っている母ではありませんでした。
本来、子供は入れませんが
特別に私と弟も中に入れることになりました。
入り口で消毒して、ガウンを着ました。
父と弟と一緒に中に入りましたが
母のところに行くのが怖かった。
母は意識もなく、点滴や心電図のコードがたくさん付いていました。
私の知っている母の姿ではありません。
この人は、ホントにお母さん??
心の中で何度も思いました。
きっとICUの中に入っていたのは5分とか
短い時間だったと思います。
それでも、とても長く感じました。
「お母さん、頑張ってるから」
そんな風に言われても
そもそもなぜ母があんな風になっているのか
誰も説明してくれませんでした。
そこに先生が来ました。
「脳梗塞の場所が悪くて、手術も出来ません。」
他の説明は、全く理解できませんでしたが
この言葉だけは聞き取れました。
お母さん、死んじゃうの??
そう思ったけれど、その言葉を声に出すことはできませんでした。
絶対に言ってはいけないと思いました。
誰も何も説明してくれないから
聞いてはいけないと思った気がします。
父はこの日から数日、病院に泊り込んでいて帰ってきませんでした。
説明してほしかった
後から聞いた話ですが
仕事場で突然、意識を失ったそうです。
デスクワークをしながら会話をしてたのに、突然止まったので
職場の人が声をかけたら意識がなく、慌てて救急車を呼んだそうです。
倒れたのが自宅だったら、もしかしたらそのままだったかもしれません。
倒れた日が金曜日だったので、
私と弟は祖父母の家に泊まりました。
そこで祖母の電話を聞いてしまいます。
『もって3日』
内容はわかりません。
ただ10歳の私にも、この言葉の重みはわかりました。
今から思うと、誰かがキチンと説明して欲しかった。
子供だからと何も話してくれないことが
余計に不安になった気がします。
全部は理解出来なくても、大変な事が起こったということは感じていました。
その不安を吐き出す場所がなかったこと
泣いてもいいと寄り添ってもらえなかったことが
この先ずっと影響している気がします。
父や祖父母、叔父叔母たち
そこに居た大人たち全員が
まだ35歳だった母が倒れたこと。
しかも脳梗塞。
手術もできない。
その現実を受け止めるのに精一杯だったんだことは
今になると理解できます。
誰も悪くない。
仕方のないことでした。
母の闘病生活の始まり
母が倒れてから
最初に言われた『3日』は何事もなく
しかし好転もせず過ぎていきました。
私達は自宅に戻り、母方の祖母が
泊り込んで日常の世話をしてくれました。
3日目か4日目に、やっと父が家に帰ってきました。
ずっと病院に泊り込んでいたのですが
伯父に半ば強引に、追い返されたようです。
父は数日で、明らかにやつれていました。
やっと父が家で布団で寝れたその日
真夜中に家の電話が鳴りました。
父が飛び起きて電話に出ると
ただの間違い電話…
その時の父の緊張感は、なんとなく覚えています。
そのくらい、
いつ何が起こってもおかしくない状態だったんですね、きっと。
しかし、母は頑張ってくれました。
意識は戻らないままでしたが、安定してきたので
少しずつ日常生活に戻っていきました。
私は、学校を休まず通っていましたが
父も仕事に復帰しました。
変わったことは
祖母がいてくれたこと。
父が毎日、定時で帰ってくるようになったこと。
そして毎日、病院に行っていたこと。
どんな風に過ごしていたのか覚えていませんが
担任の先生もよく気にかけてくれたような気がします。
4月から転校することが決まっていたので
この学校で過ごす最後の日々でした。
長くなったので、続きはまた書きます。
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